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武州ゼミナールからの通信
by bushu-semi


武州通信第164号(2009・1/1)

 なにやら2年越しの通信になってしまいました。今日は元旦。というわけで月並みに「明けましておめでとうございます。今年もよろしく。」
 パソコンに向かっても、去年の“昨日”と今年の“今日”、何だか気分がちょっぴり違う。不思議なものですね。

《学校生活、起・承・転・結》の巻 

 今年は時代の転換点。いい転換点になって欲しいですね。
 ところで、日本では、ものを書くときには「起・承・転・結」を意識して書け、と言います。僕も、生徒(や大学生)の小論文を手伝う際には、とりあえずこのことを語り、無理なら「起・承・承・結」で良いと伝えます。というのも、この「転」の部分はとても難しいのです。とにもかくにも「転換点」の「転」は難しいのです。 
 
 江戸時代中期の博物学者、平賀源内の戯れ唄?に、
(起)京の三条の糸屋の娘
(承)姉は十七、妹は十五
(転)諸国諸大名は弓矢で殺す
(結)糸屋の娘は目で殺す
というのがあります。本当によくできていると思う。突然の「転」の意外性がこの唄の味わいを深めています。「結」の糸屋の娘の色っぽさが引き立ちます。平和な庶民のほんわりとした色香がそこに漂ってきます。

 ところで話は「転」じて、小学生から大学生まで関わって30年、最近ちょっと学校生活にも「起・承・転・結」があるのかなぁ?と。
 
 学校生活の「起」それは小学校、そこで人生に必要な最も基本的な一切を学ぶ。おそらく人生で必要とするすべての学びはここに集約されているに違いない。四則計算ができ、調べれば新聞が読める程度の国語力もつき、社会や自然のあり方もそこそこ学び、人間関係の大変さもちょっぴり経験…。

 次に、学校生活の「承」は中学校・高校での学びかな? 「起」の命を承って、それを発展させる時期である。したがって無くても生きられるから、どうしてこんな勉強に意味があるの?と疑問を膨らませる、そんな時期でもある。とはいえ、現代では、これをこなさなくてはなかなか先へ進めないんだよね、これが…。初恋も経験し、悶々としながらの「承」である。

 で、いよいよ問題の「転」。これが大学、いや「大学生活」である。えーと、別に大学へ行かなくてもいいんだけれど…、ともかくこの頃が「転」。ところが、最近の学生に知の「転」が生じているようには古い頭の僕には見えないのだ。もしかしたら個々人の中にはあるのかもしれない。でもね、ここでも「転」はやっぱり難しい。最近の学生は、何だか大学の勉強をこなすのに汲々としていて、そしてあとは個人的な楽しみにしか関心がなく、まるで高校生活の延長で次なる「承」でしかない、そんな気がしてくるのである。味わいの「転」が見えない。学び・考えなくてはならない年代なのに、「学び」への方向性がない。社会を対象化し、自分自身をその中で対象化する、それが「大学生活」だ「青春」だ、と僕は勝手に考えているので、何だか物足りないのである。いや、彼らはとてもいい若者だし、ある意味で魅力的ですらあるのだけれど…。だから僕が勝手に自分の尺度を押し付けているだけかもしれない、とも思う。知の意味づけが僕の思っているものとは違うのかもしれないし…。だが、せめて、ただの「承」ではなく「転」(社会の対象化・自己の対象化)は面白いよ、味わい深いよ、とだけは言わせて欲しい。恋愛も素敵、知の「転」はそれに負けず劣らず素敵。若者よ 頑張れ! かくして悦雄さんは中々頑固なのである。

 そして「結」、それはその後の長い人生であろう。ここにこれまでのすべてが収斂(しゅうれん)している。「結」に向けての「起・承・転」なのだから…。結局は、終わり良ければすべて良し、かな? ― なんだ、これが結論か? やっぱりね。

 こんな『武州通信』を書きつつ、僕の人生を思う。そこそこ良い人生だった(いや、過去形ではダメだな、進行形でいこう)とは思うが、だからといってみんな僕と同じように生きて欲しいとも思わない。こんな理屈っぽい大人ばかりじゃ世の中つまらないし…ね。みんなが幸せに生きてくれればそれでいいんだ、と改めて。そして、時代の転換点の「転」がみんなの幸せに繋がることを祈る。それに向けて「若者よ頑張ろう!」 なっなんだよ、しつこいなぁ。

 それはともかく、今日から2009年。明るい良い年にしましょう! そし て、楽しく味わいのある人生を…! 
        
 (斉藤 悦雄)
by bushu-semi | 2009-01-09 16:20
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