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武州ゼミナールからの通信
by bushu-semi


武州通信第161号(2008・9/3)

 夏休みも終わり、いよいよ2学期が始まりました。この8月は天候不順で、打ち続く猛暑を恨めしく思っていたら、突然10月の気温が数日、慌てて薄手のジャケットを…。8月後半には猛烈な雷雨。ゲリラ雷雨とはよく言ったもの。稲妻と雷鳴をともない突如集中的に日本中に被害をもたらし、去ったと思えばまたやってくる。生徒も足止めを食う大変な豪雨でした。

《子育てに不可欠な見識》の巻

 僕の夏休みは夏期講習や8月の授業で頭がいっぱい。家に帰っては、ぼんやりと北京オリンピックを見るのが関の山。

 授業をしていると、どんな問題でも簡単にクリアしてしまう子、中々覚えられない子、作業が遅い子、理解力はあるのにすぐ忘れてしまう子…、いろいろいるなぁ? としみじみ思う。そんな多様な子ども達のそれぞれの姿を心に描き叱咤激励しつつ進めるのが授業なのだが…。それでも必ずやってくる定期試験。9月下旬か10月上旬にはどの子にも同じ問題の中間テストがやってくる。
 学校勉強には、(足にあわせて靴を作るのではなく)靴にあわせて足を作り替えるような無理がある。でもなぁ、ひとり僕が嘆いてみても、それは仕方ないこと、詮無いこと。

 そんなことを考えていたところへ『バクの会』という居場所を主宰されている滝谷美佐保さんから「野の花・空の鳥」という小冊子が届く。この小冊子はいつも良い意味で僕を困惑させる。ようやく呪縛された脳が動き出す。

 その中で、滝谷さんは“子育てに不可欠な見識とは一体何か?”と問います。苦しい状況の中で悩む数多くの子ども達や若者達との触れ合いの中で紡ぎ出された滝谷さんの結論、それは、「幼かろうと、生まれながらの障碍を持っていようと、決して誰も犯してはいけない、踏みにじってはいけないものを、人は初めから、人間ではないものより与えられている、ということです。それを『尊厳』と呼ぶのではないかと思うのです」と。別言すれば、現代の社会は、“人間の尊厳=不可欠な見識”を見失った悲しい社会である、と。

 「尊厳」については僕もしばしば考えるのですが、これが思いのほか難しいのです。宗教を持たない僕には当然かもしれません。尊厳がどこから来(きた)しているかは僕には分かりませんが、それでも滝谷さんの言われる通りだと納得します。人がこの世に“生を受け”“生を駆け抜け”“生を終える”、このことだけからでも充分理解できます。産まれなければ開かれない「世界」、産まれたからこそ開かれる一回だけの「固有な世界」、それが尊厳性を持っていないはずはない、そんな気がするのです。

 僕達はそんな生の尊厳性をついつい忘れてしまいます。子どもを育てる上で持ち続けなくてはならないはずの見識が、日常性に埋没する中でいつの間にか薄まり風化してしまう。何ができ、何ができないか、で人間の価値が決まり、他人より上を目指すことが人生の目的になる。自分の子どもと他人の子どもを比較して、自分の子どもをより優位な立場に置きたい、子育てにはそんな願望がつきまといます。親の性(さが)だと言ってしまえばそれまでのこと。でも、それはやはり恐ろしいことに違いありません。子どもの世界を自分の良かれと思う気持ちだけで“操作できる”と考えることの危うさがそこにはあります。とはいえ、子どもの言いなりになれ、と言いたいのではありません。僕が言いたいのは、子ども一人ひとりの世界の尊厳性とそれへの畏敬の念を忘れてしまった子育てには落とし穴があるということです。こんな偉そうなことを書いていても、僕もしょっちゅう忘れてしまいますから どうしようもないですね。もちろん、いつの世も、個人には、できる、できない、の差があり、それに沿っての行動や選択の違いはあるでしょう。ただ、怖いのはそれがすべての基準になって社会が動いていくことかもしれません。現代の社会は、そして現代の子育ては、その方向に沿って動いているように見えます。僕が困惑するのは、こういう社会であっても、人はその中で生きねばならず、その中で生活を維持しなければならない、という現実です。

 それでも、「人は何ができるかできないか、何を持っているか持っていないか、にまったく依らず、一人ひとりは同じ大きさで大切な存在である」という滝谷さんの視点、それが多くの大人の“見識”として根付けば、子ども達はもっともっと生きやすくなるに相違ありません。いや、それだけではありません。そうなれば、もしかしたら、社会も大きく変化するかもしれませんね。

(斉藤 悦雄)
by bushu-semi | 2008-09-04 16:00
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