武州ゼミナールからの通信
by bushu-semi


武州通信第180号(2010 ・ 6/24)

 武州の植木鉢にいつの間にか“ねじ花”が咲いている。くるくるまわる小さな花の螺旋階段、いったいどこからきたんだろう。
 その昔、今は亡き母がこの花を欲しがっていたのを思い出す。 

《憧れ!》の巻

 山々はもう春の色を失い、初夏の緑に彩られていた。義兄の法事(七回忌・6/12)のため郷里の松本に行ってきた。義兄が鬼籍に入ってからもう6年の歳月が流れたのだ。山々はこの間 幾度 色を変えたことだろう。

 法事の翌日、『武州通信』第112号で触れたあの「おれの山」(藤井谷)へ行ってみた。あれから7年、息子は29歳になり、娘は33歳になった。その2人に加え、娘婿の慶司郎さんを含む4人で「悦雄さんの山」へ。誰が見ても何の変哲もない蝶の舞い降るただの山である。そう、蝶の舞い降るただの山…、そこに僕の原点があった。

 その日も、春に恋するウスバシロチョウ、浅黄色の晴れ着をまとったアサギマダラ、縞々模様のコミスジ、それに、数々のヒカゲチョウやジャノメチョウが僕達を出迎えてくれた。暖かい日差しを通して涼風が心地良く肌に触れる。50年前の僕はこの優しい風に育てられ、無心に捕虫網を振るっていたのだった。今、僕は当時と同じ風を浴びている。不思議な感覚が呼び覚まされる。突如現われた蝶影に身体がぎこちなく反応する。手に捕虫網がないのに気づき、思わず苦笑してしまう。漆黒の地肌に黄の紋様を忍ばせたクロアゲハが悠々と樹林に消える。こんな情景もあの頃のままだ。

 最初の一粒が零れ落ちると、思い出は次から次へときりもなく溢れ出る。昭和30年代のうらぶれた、それでいて何となくのんびりした街並み。わが家の斜め前に、ユウジさん (漢字は忘れたが僕達はユージーちゃんと呼んでいた) という物静かな高校生のいる一家が住んでいた。ユージーちゃんは成績優秀だということで近所で評判の高校生だった。でも、当時の僕には、ほとんど話したこともない年の離れた縁遠いお兄ちゃんにすぎなかった。ところがある日、母から 「ユウジさんの部屋には蝶の標本がたくさんあってとても綺麗だから見せてもらったら?」 と唐突に勧められたのである。小学5年生の僕は小さな期待を胸にユージーちゃんの部屋を恐る恐る訪ねた。ところがそこには僕が予想していた何十倍もの驚きがあった。小さな部屋の壁面いっぱいに標本箱が並んでおり、中には見たこともない蝶が無数収められていた。ようやく白黒テレビが普及し始めた頃である。想像すらしたこともない夢幻の世界がそこに広がっていた。その後、僕は一人の虫好きの友人を誘ってしばしばユージーちゃんの部屋に顔を出すようになった。ユージーちゃんは、嫌な顔もせず、穏やかに、しかも殊更自慢するでもなく、様々なことを淡々と話してくれるのだった。国内だけでなく海外にも蝶関係の文通仲間がいるらしく 「これはトリバネアゲハで東南アジア産、こっちは中南米産のモルフォだよ」 というような当時の僕達にはチンプンカンプンの説明が、ユージーちゃんを一層素敵なお兄さんに仕立て上げた。僕達二人は胸を高鳴らせて聞き入ったものである。僕が勝手に「おれの山」と名付けているあの藤井谷の存在も、「採集道具」や「標本の仕方」も、何もかもすべてがユージーちゃん伝授の賜物である。

 それからの僕と友人は蝶の虜になった。「おれの山」は「友人の山」でもあった。偶にすれ違う大人の採集家とのちょっとした語らいも楽しかった。僕達の成果に大人の彼らが興味を示すと、くすぐったくも自慢にも思った。照れた友人のはにかんだ顔が昨日のことのように目に浮かぶ。

 今思うとユージーちゃんの家にはせいぜい5~6回行っただけなのかもしれない。その後、ユージーちゃんは県外の大学生となり松本を離れ、それから何年かして彼のご家族も突然引っ越してしまった。もうユージーちゃんに会うことはないだろう。それで良いのだと思う。ヘッセの『青春は美し』のように、“思い出” という仮想の世界にこそ味わいがあるに違いないのだ。

 なにはともあれ、たった数日の関わりが僕を大きく変えた。ユージーちゃんは僕の蝶の師匠であるだけではなかった。小中学生の頃の僕は、ユージーちゃんその人に一種の “憧れ” を抱いていたように思う。あの大らかで落ち着いた物腰、その柔らかく優しい人柄。… そこにひとひらの憧れ!

 憧れのお兄ちゃんお姉ちゃんは誰の心にも息を潜めて存在することだろう。それにしても半世紀も経ってあの頃のままのユージーちゃんが甘やかに僕の心に去来するとは?

 帰郷したあの日から、僕は年を重ねる侘しさの中に一雫の面白さを感じ始めている。 
               
(斉藤 悦雄)
by bushu-semi | 2010-06-26 18:13
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